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1942年の12月31日、日本ではガダルカナル島で戦う日本軍の撤退が決定しました。

ガダルカナル島は日本から南に約6000キロも離れたソロモン諸島の島で

その島の唯一の飛行場を巡ってアメリカ軍と4ヶ月も続いた戦いです。

4ヶ月の戦闘で日本軍は3万人以上の兵士、60隻以上の軍艦を投入して

アメリカ軍と何度も激しい戦闘を行いました。


 

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日本軍は1941年12月8日にマレーシア、シンガポール、フィリピンに攻め込み

当時支配していたイギリス、アメリカを撃退し、後にインドネシアでオランダを破りました。

日本の占領地は西はビルマ(現在のミャンマー)東は太平洋のマリアナ、ギルバート諸島、

南はパプアニューギニアにまで勢力を伸ばしていました。

日本軍は当初は東南アジアの資源地帯であるインドネシアとマレーシア、

フィリピンを占領すれば良く、あとは占領地の防衛をするつもりでしたが

アメリカやイギリスなどの連合軍はしきりに戦闘機で占領地に空襲を行うなど

危険な状態が続いたため、新たに戦線を拡大して占領地を守ろうとしました。

南方においては当時オーストラリア領だったパプアニューギニアの最南端にある

ポートモレスビーがオーストラリア軍の拠点になっており、占領する必要がありました。

しかしポートモレスビーは頑丈な要塞で激しい抵抗が予想されるため

ソロモン諸島に航空隊の基地と飛行場を作って航空戦を優位に進めようと考えました。

 

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日本軍はガダルカナル島とツラギ島に兵隊と設営部隊を送り飛行場の建設を進めました。

ガダルカナル島にはルンガ岬と言う船が泊めやすい場所がありそこが候補地でした。

そして飛行場の建設が進んできた1942年7月、突然アメリカ軍の艦砲射撃に遇い

まもなくアメリカ軍の海兵隊が上陸してきました。

日本軍はまさかこの島にアメリカ軍が攻めてくるとは考えていなかったため

僅かな兵隊しか置いておらず、ガダルカナル島とツラギ島の兵隊は全滅しました。

ツラギ島からラバウル日本軍航空隊基地への緊急電報を最後に連絡は途絶え、

完成間近だった日本軍のルンガ飛行場はアメリカ軍が占領します。


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ガダルカナル島とツラギ島で飛行場の建設をしていた設営隊は武器を持っていなかったため

アメリカ軍との戦闘になることはなく、生き残った者は捕虜になりました。

日本軍はラバウルに届いた緊急電報の内容からアメリカ軍の反撃が来たと考え

東京の大本営に陸軍の派遣を大至急で要請する電報を打ちます。

しかし大本営陸軍部はガダルカナル島の正確な位置すら知りませんでした。

南太平洋の諸島は海軍が担当していて情報伝達が陸軍に伝わっていなかったのです。

陸軍はアメリカ軍の本格的な反撃とは考えず、兵を送り込めば敵は逃げると考え

すぐに送れる規模の一木大佐が率いる900人をガダルカナル島に送り込みます。

 

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しかしアメリカ軍はガダルカナル島に送り込んだ戦力は本気でした。

ガダルカナル島を日本軍に取られたら東南アジアの反撃拠点としていた

オーストラリアへの連絡路を絶たれてしまう危険があったため

当時出せる限りの兵力と軍艦を出してガダルカナル島に向かわせていたのです。

 

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1942年8月、ガダルカナル島の北部のタイポ岬に上陸した一木支隊は

海岸沿いに西に進みました。

そのまま西に進めばルンガ飛行場に行ける進路でしたが、

イル川という川を渡ろうとした際にアメリカ軍の陣地にぶつかり、

一木支隊は深夜に闇夜を利用して突撃してアメリカ軍を撃退しようと考えます。

日本軍は闇夜に紛れての突撃戦は得意だったためにこれで勝てると考えていました。

しかし一木支隊の兵力900人に対し、アメリカ軍の兵力は15000人もいました。

しかも戦車や大砲、重機関銃などの重火器で装備を固めており、突撃対策も知っていました。

一木支隊はイル川のアメリカ軍陣地の目前にまで迫りましたが、

なんと後方からアメリカ軍が攻めてきて挟み撃ちに遇い、

やむなくアメリカ軍陣地の真正面に総攻撃を仕掛けることになりました。

一晩の激闘で一木支隊はアメリカ軍の猛攻の前に真正面から挑んで780人が戦死、

支隊長の一木大佐もあまりの大敗に責任を感じて自殺してしまいました。

僅かに生き残った100人余りの日本兵はジャングルに逃げ込み援軍を待ちました。

 

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大本営陸軍部は一木支隊全滅の電報を受けて全滅したことに驚きました。

大本営は当初はアメリカ軍は真珠湾攻撃で多数の艦船を失ったことから

すぐには反撃に来れず、1943年夏までは反撃はないと考えていました。

そのことから今回のアメリカ軍の部隊も小規模なものだろうと考えていました。

大本営は川口少将が率いる5000人の兵力をガダルカナル島に送り込みました。

8月末、川口支隊はガダルカナル島に上陸すると一木支隊の敗残兵がいました。

敗残兵はガリガリに痩せ細って衰えており、その姿に驚いた川口支隊の兵士が

大急ぎでご飯を炊いてやろうと米を出すと、無言のままで炊いてない生米を

ボリボリと音を立てて食べ始めるほどに飢えていました。

ジャングルのなかに避難したものの、全く食糧がない状態が1か月続き、

野草や虫、小動物を捕まえて茹でて食べて飢えをしのいでいたのです。

川口支隊は一木支隊が失敗した海岸沿いでの突撃は止めて内陸のジャングルを進軍しました。

しかし全く道がない未開のジャングルの進軍になったためにまともに進むことが出来ず、

ルンガ飛行場があるアメリカ軍の陣地前にたどり着くのに10日以上かかりました。

未開のジャングルを斧やスコップで道を切り開きながら進んだために道が悪く、

用意していた大砲などの重火器も運ぶことが出来ませんでした。

しかし9月12日の夜には海軍との合同作戦で総攻撃をせねばならず、

当日になってルンガ飛行場に兵を終結できないまま総攻撃を仕掛けることになりました。

 

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9月12日の夜に海軍の重巡洋艦や駆逐艦が海からアメリカ軍がこもるルンガ飛行場を砲撃、

遅れを取った川口支隊もルンガ飛行場に攻め込みました。

しかしアメリカ軍は川口支隊が到着する間に飛行場を完成させていました。

ルンガ飛行場はヘンダーソン飛行場と名前を改められて、飛行場の周囲の陣地も

コンクリートと鉄条網で完全に固められて万全の態勢を取っていました。

強固に固められた陣地は総攻撃でも破ることが出来ず、機関銃と迫撃砲の反撃を食らい

全く歯が立たなくなった川口支隊は無念の思いでジャングルに逃げ込み撤退しました。

朝になるとアメリカ軍の陣地前の丘は日本軍の死体と鮮血で真っ赤に染まっていました。

あまりに凄惨な状態であったことから、ブラッディ・ヒルと名付けられました。

 

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大本営は総攻撃失敗でアメリカ軍の戦力を侮っていたことに気づき、

今度は百武中将が率いる第17軍の第2師団の派遣を決定しました。

10月初旬に第2師団はガダルカナル島に到着しましたが、彼らが目にしたのは

川口支隊の兵士たちのガリガリに痩せ細った哀れな姿でした。

川口支隊が上陸したときに出会った生き残りの一木支隊と同じことになっていたのです。

百武中将ら第2師団は大至急で食糧の補給を要請しました。

しかし当時はアメリカ軍はヘンダーソン飛行場から攻撃機が飛んでおり、

機銃掃射や爆撃で空襲を受けており、補給の輸送船が攻撃を受けて沈められてしまい

食糧や重火器を十分に輸送することが出来ず、戦力はなかなか整いません。

 

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ガダルカナル島の戦況が良くならないのはアメリカ軍が飛行場を持っていて

海上からの補給が整っているからだと考えた海軍の山本五十六連合艦隊司令長官は

せっかく建設したのをもったいないのを承知で、まず飛行場を潰す作戦を考えます。

 

 

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ヘンダーソン飛行場の北の海岸付近に少々強引に戦艦を突入させて

艦砲射撃で飛行場を砲撃して破壊することで敵の制空権を封じ込め、

その隙に兵士と食糧、重火器を上陸させようと考えたのです。

サボ島沖夜戦と呼ばれ、この海戦で日本軍は2隻の高速重巡洋艦を海岸に突入させ

1発あたり1トンもある36センチ砲弾をヘンダーソン飛行場に打ち込みました。

この艦砲射撃でヘンダーソン飛行場は火の海になり大混乱に陥りました。

アメリカ軍にとって最大の危機でしたが、運よく拡張した予備滑走路は無傷で済み

格納していた僅かな飛行機で反撃に出て日本軍の輸送機を攻撃し、撃沈しました。

飛行場は破壊したものの物資の輸送には失敗してしまい、戦力は整えることができず

百武中将は戦闘能力が不十分なまま総攻撃を行いましたが失敗に終わりました。

 

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11月、日本軍は再度、ヘンダーソン飛行場の砲撃と兵員と食糧の輸送を試みますが

いずれもアメリカ軍の堅い守りと反撃によって失敗に終わりました。

このころになるとアメリカ軍は制空権と制空権を固めてしまい、日本軍は孤立します。

日本軍は一木支隊の派遣から約3万人の兵力を投入していましたが、

熱帯のジャングルに3万人が食糧の補給もないまま持久戦をすることになり、

次第に食糧が尽きて体力がなくなっていき、マラリアや赤痢にかかる兵士が続出して

とても戦闘が出来る状態ではなくなっていました。

ガダルカナル島に孤立した日本軍の窮状を目の当たりにした陸軍の参謀は大本営に報告し、

もはやガダルカナル島を奪回することは不可能と判断して12月31日の御前会議で

天皇陛下にガダルカナル島の日本軍の撤退を上奏し、撤退が決まりました。

 


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ガダルカナル島の撤退には海軍が出せる限りの駆逐艦を用意して

1943年2月上旬、ようやくガダルカナル島に到着して撤退作戦が始まりました。

しかしそのころには日本軍の兵士たちは衰弱しきっていて

なかには歩くことすらできなくなっているほど弱っている兵士も居ました。

衰弱しきった体は心までも蝕まれており、銃や手榴弾で自殺していきました。

この撤退作戦はアメリカ軍の空襲に遇うことなく無事に成功しました。

アメリカ軍が撤退であることを認知していて、あえて攻撃しなかったと言われてます。

 

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ガダルカナル島の戦いで日本軍は3万人の兵士のうち2万人が死亡、

うち戦闘で死んだのは5000人で残りの15000人は餓死や病死でした。

この戦いで日本軍は多くの戦艦や重巡洋艦、輸送船を沈められてしまい、

何の戦果も得られないまま、大量の戦力を喪失してしまいました。

この敗退で日本軍は反転攻勢にでたアメリカ軍を相手に守勢に回ることになり、

次第に本格的になってくる連合国軍に追いつめられていくことになります。