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1:2016/05/23(月) 20:31:57.27 ID:
1183年11月、木曽義仲は後白河法皇が招集した朝廷軍を急襲し、これを撃滅した。(法住寺殿合戦)
義仲は法皇を幽閉、反義仲派の公卿を一掃する人事を行い、翌1184年1月に
征夷大将軍に任ぜられて京都に幕府を開いた。
だが、歴史家は何故か、義仲の政権を幕府と呼ぶことは無い。
 
これは一体どういうわけだろうか?
京都幕府の存在を認めたがらない闇の勢力でもいるのだろうか?
2:2016/05/23(月) 21:20:02.02 ID:
頼朝を武家政権の創始者にするために
京都幕府は歴史から抹消された
4:2016/05/23(月) 23:47:04.28 ID:
幕府っても影響力のある地域が少なすぎるし、体制も何も出来ていない。
まあ単なる占領軍だね。
義仲はあくまでも武人で政治力はサッパリだから。
配下にも政治的な駆け引きに長けた者がいなかった
5:2016/05/23(月) 23:55:17.79 ID:
木曾義仲は旭将軍に任ぜられたが、統治機構たる幕府は造る暇がないまま、義経に破れ去ったから京都幕府はないのだと、
今際の際に小沢せいえつが言っていた
6:2016/05/24(火) 08:16:52.59 ID:
木曽義仲の大河ドラマ希望
7:2016/05/24(火) 09:12:37.96 ID:
甲斐源氏も天下を狙えたんだろうか
8:2016/05/24(火) 10:12:14.92 ID:
頼朝も当初は関東一帯に過ぎない
最大領域で見ても関東東海東北くらいじゃないだろうか
9:2016/05/24(火) 11:59:37.83 ID:
そもそも平家政権自体、六波羅幕府と見なす人もいるからな、どうなんだろう
48:2016/05/31(火) 20:37:37.56 ID:
>>9
軍権だと清盛の畿内惣官職も幕府とみなしてよいかも
10:2016/05/24(火) 19:14:18.38 ID:
平家は征夷大将軍の位じゃなく
公家の位について政治したからなぁ
天皇と縁戚結んで行ったから
どっちかというと藤原氏と同じ政治
武家政権とは言えないような
14:2016/05/26(木) 06:02:38.34 ID:
木曽義仲って教養がない脳筋だったん?
源氏の武士ならそれなりの教育受けてるもんじゃ無いの?ど田舎育ちでも
15:2016/05/26(木) 09:22:39.95 ID:
>>14 義親とか為朝 義平 は見た目も脳筋。
平氏には忠度のように一角の歌人がいた。
21:2016/05/29(日) 19:05:11.48 ID:
>>14
親父の義賢が甥の義平に殺されて木曽の山奥に匿われて育ったからろくな教育は受けてない。
義賢は父為義の命で、為義と不仲で関東を勢力圏としつつあった兄義朝を牽制するために関東に下った。
これを邪魔と見た義朝は長男義平に邪魔ができないように軽く締めてこいと言いつけたら討ち取ってしまった。
義平はさらに義賢の遺児駒王丸(2歳)も殺そうと手配したがあまりに可哀そうと思った斎藤実盛によって
信州に逃がされた。
19:2016/05/27(金) 09:54:24.23 ID:
軍事と政治力両立出来てた人って源範頼かな
20:2016/05/29(日) 14:40:28.45 ID:
木曽義仲と新田義貞って、なんか似ている。性格は違うんだが、キャラ枠がかぶっている。
義経と護良親王も。
22:2016/05/29(日) 22:53:01.23 ID:
>>20
義仲と義貞は死に際が似ているけど、あれは太平記が平家物語の影響を受けているかららしい。
23:2016/05/29(日) 22:54:27.73 ID:
>>20
あ、あと義経と護良親王も。護良の十津川逃避行は義経記から影響を受けてる。
護良の部下に片岡八郎、武蔵坊といった義経の手下の名前が見える。
24:2016/05/29(日) 22:56:39.55 ID:
片岡鶴太郎の北条高時はえがったな
25:2016/05/30(月) 19:05:10.19 ID:
幕府ってのは統治能力を持った政権を言うんじゃなかったか。
頼朝は守護地頭を使って実質的に統治権力を収奪したから幕府と呼ばれるんじゃないか。
28:2016/05/30(月) 19:43:43.61 ID:
木曽義仲は将軍だったけど、政権とは認められていないということかな。
統治機構がなかったから幕府と呼ばれないということか。
29:2016/05/30(月) 22:02:06.37 ID:
頼朝だって政権のために征夷大将軍の地位を望んだわけじゃないからね。
そこんところを理解していない人が多すぎる。
35:2016/05/31(火) 08:03:33.50 ID:
鎮守府将軍でも幕府開けたんじゃなかったっけ
36:2016/05/31(火) 09:32:14.61 ID:
そもそも、幕府って、「開く」ものなのか?
んぢゃあ、
『1333年 後醍醐天皇が鎌倉幕府を閉じる』という表現も誤りではないはずだ。
38:2016/05/31(火) 15:40:43.07 ID:
建前としては奥州藤原を討伐するため、と言っていたけどさ。
頼朝が実際に何を望んでいて、何を目的としていたかはわからんだろ。
39:2016/05/31(火) 15:58:59.26 ID:
>>38
近年は「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」と言わないように、
征夷大将軍=幕府と言う考えではなくなってるのも知らないみたいだね。
武家のトップとしての将軍、という意味も当時は出来てない。
鎌倉に摂関家や親王の将軍がいたし、建武の新政下でも親王が将軍になってる。
41:2016/05/31(火) 16:06:28.51 ID:
頼朝が望んだものは摂関家の家格

右近衛大将も征夷大将軍も本望ではなかった

大姫を入内させ、天皇家の外戚となり日本国総追捕使として国家の軍権も併せ持つこと

清盛も成し得なかったことだ(清盛の場合、後白河の幽閉が悪手だった)
42:2016/05/31(火) 16:10:05.76 ID:
じゃあ頼朝は純粋な意味で武家政権を望んだわけではないということか。
43:2016/05/31(火) 16:12:09.27 ID:
摂家将軍を迎えた北条政子は頼朝の理念を受け継いでいたと言える
83:2016/06/14(火) 22:35:05.99 ID:
源氏が身内で争うのはなんでかね。
平氏も将門のころは身内で争ってたけど、平家の仲が良いのはなんでかね。
清盛の人徳かね。
北条も身内争いあまりないね。
89:2016/06/15(水) 22:25:14.79 ID:
>>83
源氏将軍と足利将軍は身内で争ってるイメージ

平氏や北条氏は一門で争っても敗者の一族をある程度の役職で登用しているイメージ
86:2016/06/15(水) 08:02:02.28 ID:
名越家も幾度も得宗家と反目しているとはいえ、二月騒動以降は大人しいからな
87:2016/06/15(水) 08:05:12.94 ID:
身内で争うのは、何の不思議でもないw
現代人でも、兄弟でも遺産相続で争うしな
90:2016/06/16(木) 04:36:09.45 ID:
野心の達成の為なら手段を選ばないあたり源義光は相当だと思う
94:2016/06/19(日) 03:22:30.68 ID:
頼朝は父親の失敗や後白河院の陰謀を見てきて尚更のこと京とは隔絶したかったんだろう
97:2016/06/19(日) 14:27:15.98 ID:
頼朝が鎌倉を動かなかった理由は>>94のとおりだと思うが、考えてみればこれは大変なことである。
京都は室町時代においては産業・金融が高度に発達し、全国各地へ通じる交通網も整備され、
「一極集中」状態にあった。 日本を統治する拠点としてここを外すという選択は
政治論として普通は有り得ない。
室町幕府も豊臣政権も畿内の他に本拠地を置かなかったのは故なしとしない。
方向性というより、そもそもそれが本来自然なのだ。
95:2016/06/19(日) 11:29:06.43 ID:
足利義満 「俺は京都がいいな。」
96:2016/06/19(日) 13:10:06.40 ID:
室町幕府の方向性は平家に近いかもな
98:2016/06/19(日) 15:27:12.47 ID:
地方政権としてスタートしたけど承久の乱や元寇などの有事を契機に全国政権となったというかならざるを得なかったんだよな
99:2016/06/20(月) 13:48:06.92 ID:
頼朝が幕府を鎌倉に置いたのは関東から離れられなかったためで、尊氏が京都から離れられなかったのと
同じ構造なんだね。別に好きで関東に骨を埋めたいと思っていたわけではなかったと思う。
「北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?」スレでも書いたのだが、寿永の宣旨で東国独立路線を放棄したのがターニングポイントだった。
頼朝はやはり軍事貴族だったんだね。院政の下での軍事・警察を司る家職を世襲し、王家と源氏将軍家が手を取り合って
日の本を統治する姿こそが頼朝の本願だったのではないか?
娘を入内させようとしたり、土御門通親と組んでみたり、頼朝の本質は軍事貴族ではなかったのか?
北条義時やのちの足利尊氏とは明らかに違うニオイを感じてならない。
「京都幕府」は東国武士団にとっては絶対に容認できない代物だが、
頼朝にとっては案外受け入れやすいものではなかったのか?

我々は頼朝の政権を平氏政権と全く違った武士政権と解釈してきたが、少し先入観を外した方が
いいのかもしれない。
100:2016/06/20(月) 23:37:42.14 ID:
東国武士も以外と都との繋がりが深かった連中もいるらしいし、
義時に至っては娘の多くは都に嫁いでる。
103:2016/06/21(火) 17:54:05.72 ID:
義仲も気の毒だが、頼朝義仲と並ぶ勢力だった甲斐源氏の無視されっぷりはもっと悲しいぞ。
最近は注目されつつあるけど。
そういえば甲斐源氏の中に秋山っていたな。
110:2016/06/25(土) 18:16:57.40 ID:
>>103
もともと協調路線で戦争に及ぶ前に完全に牽制されたからな
鎌倉に召集されて神前で起請文を書かされてるし
111:2016/06/26(日) 19:21:19.13 ID:
>>110
その起請文書かされた時期が実は吾妻鏡の編集の際に操作されたという説もある。
吾妻鏡の記載順だと
武田信義の起請文→甲斐信濃侵攻→一条忠頼殺害だが

延慶本平家物語等の期日に従えば
一条忠頼武蔵守任官(?)→一条忠頼殺害→甲斐信濃侵攻→武田信義の起請文
なのではないかともいわれている。

安田義定なんかは、義仲と一緒に都に上ってその時に任官してるから
頼朝としては甲斐源氏はやっかいな連中と思っていただろうな。
105:2016/06/22(水) 00:41:08.02 ID:
尊氏はともかく義満はむしろ関東に移るべきだった
ただ鎌倉はないな
106:2016/06/22(水) 01:14:18.66 ID:
じゃぁ何処に移れというんだよ
118:2016/07/01(金) 10:35:06.05 ID:
戦に敗れて弱っている時にたくさんの人が助けにくる頼朝と、戦に負けると人が離れる義仲の違いはなんだろう。
軍事力あっての政治力という見方もあるけど、軍事力を背景に味方にした軍勢は、負けて旗色が悪くなると離れていくよな。
頼朝は戦に負けてしょぼんとしているときになぜか仲間が多くできる。
梶原景時しかり、千葉常胤しかり、上総広常しかり。
人望なのか、政治力なのか。
123:2016/07/02(土) 21:08:45.98 ID:
>>118
相模、武蔵、房総武者と信濃、上野、北陸武者の差
124:2016/07/02(土) 21:43:45.87 ID:
>>123
その差が実際にどういうものか、具体的に教えてくれんかね?
119:2016/07/01(金) 12:10:59.65 ID:
尊氏もいたね

人望に血への期待も含まれてるかな
121:2016/07/02(土) 07:04:52.45 ID:
頼朝の強運さは尋常ではないからな
129:2016/07/09(土) 21:11:32.17 ID:
しかし頼朝ってほんと等身大の普通の人間だよな

たいがいはさ
こう弟の義経みたいに超人伝説みたいのあんじゃん

そういうのがあんまりないつうか
鮭食って喜んだり
普通過ぎるよな
130:2016/07/09(土) 22:13:52.15 ID:
>>129
最後は馬から落ち死んだからな あまり伝説的に書くわけにも
131:2016/07/10(日) 00:43:50.90 ID:
超絶の人たらしだったんじゃないかな
表面的には魅力あってカリスマ性もあるけど
中身は冷徹な政治家
133:2016/07/10(日) 04:09:17.22 ID:
頼朝は担ぎ易い神輿に見えたんだろう
134:2016/07/10(日) 11:58:06.21 ID:
義経は戦に於いては鬼神の如くだけど政治面がアレだからな
軍事的にも政治面でもバランス良く揃ってるのは範頼かな
135:2016/07/10(日) 15:54:12.05 ID:
確かに、石橋山の合戦で敗れた頼朝のところに、続々と武士たちが
合流してくるというのは不思議な話だ。
ふつう、あれだけ惨敗してしまえば、政治生命を失うものではないのか?

義仲が粟津の松原で敗れた後、無事に北陸に落ち延びられたならば、
再び武士たちを集めて、再起できたであろうか?
136:2016/07/10(日) 16:53:50.84 ID:
頼朝の売りって軍事力ではないから、戦でボコられてもダメージは無いという、ある意味最強の存在だったんじゃないのか
137:2016/07/10(日) 18:13:03.06 ID:
頼朝の売りは源氏の嫡流(河内源氏の)であるということだよ。
これが大きいんだろう・・・

南北朝でも足利尊氏が源氏の棟梁と認識されてたから味方した勢力も多いだろうしな・・・
じゃあ、新田義貞(源義国の長男系)はどうだったんだ?、って疑問に思うかもだけど、そこはスルーして見逃してくれ!
141:2016/07/11(月) 18:05:31.23 ID:
>>137
本人が流刑前に獲得した官位と都との人脈、それと父親を通じて南坂東の武士たちがまんざら知らない顔じゃなかったという点が大きいだろう。
嫡流は勝ったもんが名乗るものだから
石橋山時点では頼朝が嫡流と認識されてたわけじゃないだろう。
138:2016/07/10(日) 22:16:02.52 ID:
嫡流なんて結果的に勝ち残った人が名乗るだけでしょ
140:2016/07/10(日) 22:30:23.58 ID:
足利と新田は鎌倉時代から扱いに差があったからなぁ。
義貞の責任ではない。
142:2016/07/11(月) 21:15:08.05 ID:
頼朝は曲がりなりにも令旨を奉じてたってのが大きかった
義仲もそのあたりは一緒だろう
143:2016/07/11(月) 23:52:09.20 ID:
頼朝は血筋の正当性のわりには誰のツバも付いてないというか、
北条という外戚はいたものの、決起時には北条単体では何の力も無いという状態で、

つまり頼朝のもとに参陣する武士団は平等にスタートアップの権利を有することになる、
というのも頼朝人気の理由の一つではないかな

木曽義仲などは地元の武士団が創業メンバーで、後から参陣してもどうしたって2番手3番手の扱いだろうし、
それではモチベが上がらないよね
144:2016/07/12(火) 00:51:25.65 ID:
千葉と上総が来たのがデカイよね
流れを作るには三浦じゃ身が小さ過ぎる
両総に頼朝担ぐメリットがあったってのが最大の要因じゃないかな
146:2016/07/12(火) 09:39:16.63 ID:
上総広常は伊藤忠清との紛争があったからな
平家と確執が生じていた
147:2016/07/12(火) 14:10:03.93 ID:
千葉も重盛縁戚の千田氏にかなり圧迫されて
起死回生の機会を狙ってたし。
149:2016/07/23(土) 00:45:22.30 ID:
頼朝・義経がいなければ義仲は天下統一ができたのだろうか?
マネジメント 人心収攬術 外交手腕がなさそうな人なので京都幕府は長続きしそうな気がしない。
あるいは南北朝時代の足利幕府のように四苦八苦しながら存続するか。
西国は平氏に、奥州は藤原氏に半独立状態を認め、他の源氏と同盟軍の将として京都幕府は存在。
足利幕府の劣化バージョンだな。
150:2016/07/23(土) 01:40:57.67 ID:
義仲はブサメンというイメージだな
イケメンだったら、京の貴族たちも一目置いたんではないか
151:2016/07/23(土) 09:37:25.99 ID:
源義仲は政権構想がないし、広範な武士団の支持もないので、「幕府」と
言えるような政権は無理だと思う。
後白河院が平家を牽制するための手段として使われるのが関の山ではないか。

後白河院を幽閉して全権を掌握し、「京都幕府」のような状態になったの
だろうが、その後の構想がなく、人脈やノウハウもない。
仮に頼朝・義経がいなくても、院宣を受けた別の武士に追討されてしまう
のではないか。
義仲よりまだ平家のほうがはるかに政権運営力があると思う。
 
 



引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1464003117 

0しまむらくん4
スレとはあまり関係ないですけど、木曽義仲も源氏なんですよね。
彼は源義仲とも呼ぶのですが、源頼朝や源義経と区別しやすくするためか
木曽義仲と呼ぶのが歴史教材などでは一般的なようです。
私はポッと出てきて源氏に滅ぼされてしまった山猿みたいな扱いで
源氏なのに何か不憫に感じることから、源義仲って認識ですけどね。


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