no title

 
 
 
1:2007/02/12(月) 17:31:04 ID:
高木アキミツの成吉思汗の秘密を読んだのだが、義経がチンギスになった可能性はあったのだろうか?
俺は衣川で死なずに逃げ延びたぐらいはあったと思うのだが。
326:2014/05/07(水) 01:48:46.34 ID:
>>1もそうだけど
義経=成吉思汗説って高木彬光の小説から入る人が多いわけだけど

清と元の関係について小説ではまず
「清は満州族の王朝で元と関係無いでしょ」
とヒロイン役の大麻鎮子が突っ込んだ直後に
「いやデビス著の『清国総録』によれば~」
と探偵役の神津恭介が言い張って強引に話が進むんだよな
3:2007/02/12(月) 17:48:11 ID:
面白いよねこの説
モンゴルの人からすれば噴飯物なんだろうけどw
4:2007/02/12(月) 18:55:44 ID:
まずチンギス=義経としたら、義経がどうやってチンギスとしての人脈を得たのかが問題になる
チンギスの兄弟や子供や友人が存在していたことは否定できないからね
6:2007/02/17(土) 22:48:43 ID:
>>4
家族や親戚に囲まれていた状況からして、よそ者の、しかも外国人が
すりかわる余地などなさそうに思えるよなw
5:2007/02/12(月) 21:22:10 ID:
モンゴル統一直前に討ち取られて死亡するテムジン、
途方にくれる彼の一族の目の前にテムジンに瓜二つの日本からやってきた武者が・・・!



小説的にはこれで十分だな
8:2007/02/18(日) 21:08:40 ID:
義経の北上に同行した一行って誰だろう?
弁慶も金売り吉次も、主だった家来は衣川でほとんど死んだんじゃなかったっけか。
43:2007/03/03(土) 22:07:34 ID:
義経北行の一行の足取りについては、結構色々な古文書が残っているようだが、
総勢何人くらいだったんだろうな。
>>8のとおりで、衣川まで一緒だった家来は全て死んでしまったわけだし。

・・・静と落ち合って愛の逃避行?
9:2007/02/18(日) 22:10:10 ID:
アイヌの社会とモンゴルに何か繋がりがあるんかいな。
11:2007/02/19(月) 21:44:03 ID:
>>9
オホーツク文化を介して間接的に交易はあったかも知れない。
10:2007/02/18(日) 22:32:45 ID:
本物の劉備は既に死んでいて、その後の劉備は日本から来た倭人なんだよ。
14:2007/02/20(火) 08:09:54 ID:
>>10
V論尊先生っすか?
12:2007/02/19(月) 21:51:00 ID:
佐藤忠信・・・カサル
弁慶・・・・・・・ベルグタイ
海尊・・・・・・・カチウン
    ・・・・・・・テムゲ

川越氏・・・ボルテ
静御前・・・クラン

こういうネタはとっくにやりつくされてそうだけどな。
13:2007/02/19(月) 21:55:49 ID:
十三湊があったしねぇ
16:2007/02/20(火) 11:21:44 ID:
大いなる河=オホーツク海
17:2007/02/23(金) 21:21:08 ID:
アゲ!
もっと知りたいから 書きに期待!
25:2007/02/26(月) 12:12:44 ID:
ウリナラ起源説を聞いた日本人のように、この説をモンゴル人が聞いたら不快になるんだろうか?
26:2007/02/26(月) 16:11:13 ID:
>>25
そりゃ怒るだろう
ただしモンゴル人は郷土への執着心が希薄なので
同じ民族だった、くらいのニュアンスなら親近感を持たれるかも知れんね
30:2007/02/27(火) 07:48:26 ID:
北海道の平取に義経神社があるよ
32:2007/02/27(火) 10:44:55 ID:
蝦夷開勇者
41:2007/03/03(土) 11:21:03 ID:
しかし、義経がチンギス・ハンである可能性も捨てきれない訳ではない。
最終的な結論は更なる調査に委ねるしかない!
42:2007/03/03(土) 18:19:35 ID:
以上 マスコミ向けのコメントでした。
46:2007/03/05(月) 23:51:38 ID:
ヨシ!じゃあ結論は出た事だし(・∀・)
みんな解散!
51:2007/03/09(金) 22:12:13 ID:
テムジン=牛若丸 だと 静が強奪されてレイプされるので嫌
52:2007/03/09(金) 22:14:40 ID:
それは河越氏の役どころなんじゃなかろうか。
55:2007/03/16(金) 00:26:47 ID:
そういえば、顔は似ているw
64:2007/04/05(木) 00:35:05 ID:
義経はブサメン
65:2007/04/05(木) 01:15:11 ID:
ならチンギス・ハンと同じだなw
69:2007/04/08(日) 14:00:29 ID:
そもそも鎌倉武士の戦い方しか知らん義経が、モンゴルの軽装騎馬による戦術
(機動力生かして遠距離から包囲して騎射)を出来るとは思えん。
72:2007/04/08(日) 22:56:41 ID:
>>69
義経は、鎌倉武士の戦いというより、奥州藤原氏の武装形態の方が馴染んでいたのではないでしょうか?
馬を操るにしても。
おそらく、義経のトリッキーな用兵は、鎌倉武士でさえ違和感があったと思います。
78:2007/04/18(水) 00:24:24 ID:
>>72
当時の奥州藤原氏は戦いに疎いし
79:2007/04/18(水) 01:50:59 ID:
むしろ義経のゲリラ戦法は、浪々の身の段階で身につけたものじゃないか。
88:2007/05/03(木) 22:19:07 ID:
軍備は変遷がある。
モンゴル軍も
騎馬だけから、城攻め武器も使った軍団に代わっている。
地域の特性にあわせて、かえてもおかしくない
98:2007/05/26(土) 07:58:26 ID:
日本て恥ずかしいね
義経をチンギスハンって言ったり
小野小町を世界の三大美女のうちに勝手に数えてるし
99:2007/06/05(火) 14:57:28 ID:
ってか義経=チンギスハンは同一人物と証明できますか?
100:2007/06/05(火) 22:23:20 ID:
無理です。
102:2007/06/26(火) 23:24:35 ID:
いえ、オレには無理です。
103:2007/06/27(水) 01:09:39 ID:
おまいら日本の歴史人物を韓国人起源だと言われて怒るくせに
モンゴルの英雄に日本人起源なんて言うなよ

モンゴル人聞いたら怒るぞ
104:2007/06/29(金) 12:53:01 ID:
>>103
日本人は特別な存在だから、日本人起源はとても名誉なことなんでしょうw
106:2007/06/29(金) 20:08:29 ID:
トンでも論は日本では主流にはならんよ
だからこそファンタジーはファンタジーとして楽しむのもあり
108:2007/07/20(金) 23:34:06 ID:
まぁ江戸の講釈もんに癇癪起こしても始まらんだろ。
と思うくらい、江戸時代の義経像は高かったらしい。
実際はその下地を生かして幕府を貶めようとした明治期あたりだろ。
だからこの伝説は復讐をテーマにしてる点で単なるマンセーじゃないってとこだな w
109:2007/08/15(水) 05:02:29 ID:
元の記録では鎌倉幕府との戦闘(元寇)の他に蝦夷地のアイヌとも戦闘したという記録があり、
現に海を渡りアイヌと戦闘したとか、逆にアイヌが海を渡り、モンゴルと騎馬戦したという記録がある。

だから、源義経=チンギスハン説ではなく、更に北方に落ち延びてアイヌにかくまわれて、
アイヌを鍛えたと見るほうが適切ではないか?
110:2007/08/15(水) 06:02:52 ID:
元のなんていう文書なの? 
114:2007/10/08(月) 00:29:37 ID:
>>109
いや、あれはクビライがモンゴル皇帝を名乗った1260年に樺太アイヌらしい「骨嵬」とかいう
連中が、間宮海峡を渡ってアムール川周辺にいてモンゴル帝国に帰順していた女直などの現地住民を
襲撃して来たんで、彼らがモンゴル帝国側(クビライの方だったと思うが)に救援要請を出したのが
きっかけ。

クビライ政府側がたびたび起きる襲撃を対して、メインの対カイドゥの中央アジア遠征とか南宋遠征、
日本遠征などの合間を縫って応急処置的に現地の女直などの兵力を編成して迎撃に当たらせていた。
最終的に弘安の役が終わったクビライの晩年に再び女直などを中心に編成した兵力一万ほどを狗橇
(イヌゾリ)に載せて凍結した間宮海峡を渡って樺太に侵攻させ、当地の「骨嵬」の勢力を討伐して
臣従させた、ってことらしい。あとで樺太に軍を駐留させたそうだが、騎馬部隊はどうだったろうか。

>>110
これについては論文がある。主要典拠は『元史』と『高麗史』だったと思う。
中村和之「『北からの蒙古襲来』小論―元朝のサハリン侵攻をめぐって―」『史朋』26号 1992年
113:2007/08/19(日) 06:17:26 ID:
ヌルハチと相撲とって舎弟にしたり、イワン雷帝と一戦交えたりした後、
ラストはインディアンの酋長になったアレか?
123:2008/03/17(月) 00:45:42 ID:
>>113
本宮ひろしね
131:2010/10/31(日) 08:27:04 ID:
義経=チンギスハンは、俺の中では、もう確信になってしまった。
132:2010/11/02(火) 07:47:25 ID:
北条の支配に反発する武士が義経を追って、モンゴルへ渡って行ったと
いう事は、考えられないだろうか?
モンゴル騎兵と武士は流鏑馬ができるという意味で似ていると思うのだが。
134:2010/12/03(金) 02:00:57 ID:
チンギスハーンはある年の8月15日に死んだと伝えられているが不思議な事に。その日に
京都の鞍馬山では義経の霊を慰める祭りが行われる チンギスハーンが死んだ日に
なんで義経祭りがおこなわれるのか?
135:2010/12/03(金) 17:25:59 ID:
義経=チンギスハンだからに決まっておろう。
137:2011/02/17(木) 15:19:09 ID:
チンギスハンの墓を発掘したら不味いだろ
大した教育受けてないテムジンがあの戦術あの力量は有り得ないし
チンギスハンよりも側近部下がそんまま付いていたと思われるから厄介だ
138:2011/04/03(日) 12:27:37.41 ID:
モンゴル人力士がほとんど日本人と変わらない
レベルで流暢に日本語喋ってるのを見ると、
逆に義経が数年でネイティブレベルにモンゴル語を
マスターしたとしても不思議はないと思う。
142:2011/04/28(木) 09:57:29.50 ID:
最近読んだ本に
「義経は小男、チンギス・ハーンは大男だから義経=チンギス・ハーン説はありえない。むしろ弁慶=チンギス・ハーンだ」
と書いてあった
152:2011/06/24(金) 00:12:28.16 ID:
源義経のとてつもない才能を見抜いたのは、
5歳で平清盛が自分の子供と比べ比類なき才能を恐れたが、殺すには忍びなく鞍馬寺に預けた。
10歳で鞍馬寺と延暦寺の僧侶が認めて清盛との約束を破り、僧侶にさせるのではなく自由にさせた。
15歳で藤原秀衛が認めて平泉に引き取った。
20歳から25歳で一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで天皇及び日本全国の人々が認めた。
そして、30歳以後世界へと羽ばたき、アレキサンダー大王・フレデリック大王と肩を並べる大王に
なったのではないか。
153:2011/06/24(金) 00:46:36.60 ID:
もう議論はいいから確定させないかお前ら。
155:2011/06/24(金) 12:33:10.17 ID:
義経ゆかりの地にはほとんど行きましたが、シナ大陸・樺太にはまだ行っていません。
これまでのところでこれは変だと思うところは列挙してください。
176:2011/08/26(金) 17:49:09.15 ID:
no title

義経=成吉思汗説ではあまりに有名な「義(経)将軍の碑」(の台座)
ロシア軍に運び去られたという碑石はその後どうなったのか
そもそもこの碑の正体は一体何だったのか
もう永遠に謎かねえと長年思ってた

碑があったのは当時のニコリスク(双城子)、現在のウスリースク
何気にWikipediaでウスリースクの項を見てみたら
いきなり出てきて大爆笑www

no title

思わず次々とググると出るわ出るわ、何だほとんど解明されてるじゃんw
中岡中佐はハバロフスクで何を調べてきたんだよw

177:2011/08/31(水) 01:17:22.67 ID:
孫文がイギリスのロンドンに留学中、日露戦争での日本勝利の報を聞いて喜び外へ出たところ、
日英同盟のイギリス人は暗い顔をしてうつむいていたと言う話は有名である。
白人が世界の覇権を握ったのは産業革命以後である。それまではイスラムの方が強かった。
ノストラダムスの予言が白人の世界支配の終わりであると心のどこかできずいていたのではないか?
そして、成吉思汗が日本人であるときずいていたのでは?
だから、ポーツマス条約では満州の地を日本ではなく清朝に帰属させた。そして、オレンジ計画で
日本滅亡の計画を立て実行した。ところが共産ソ連の台頭によりその計画は頓挫した。
皮肉な事に共産ソ連をつぶすと日本が復興し、日本をたたくと今度は共産中国がその牙をむいてくる。
そうしているうちにアメリカ自体が混血アメリカ人に支配され身動きできなくなってきた。
186:2011/11/06(日) 12:47:34.47 ID:
ところで奥州藤原氏の勢力圏ってどれくらいまであったんだ?
吾妻鏡によれば基衡が鷲の羽とアザラシの皮を贈ったとのことなので
北方と交易をしていたということはいえそうだが、それがシベリアや
モンゴルまで及んでいたかどうか気になる。

逃げるにしても北海道やシベリアの地理知識の有無、交易の結果としての
外国語知識、支援してもらうにも奥州藤原氏との友好関係があるかないか
といったことは逃亡の成功率に大きくかかわると思うのだが。


187:2011/11/07(月) 09:58:46.57 ID:
>>186
>シベリアやモンゴルまで及んでいたかどうか
及んでいたという確かな証拠は何も無いな
195:2012/01/26(木) 13:24:26.92 ID:
源義経は官位を褫奪され、さらに、諱まで変えさせられ
朝敵となってしまったが、
その後、諱の回復、官位の回復などの沙汰が無く
いまだに朝敵扱いである。
196:2012/02/06(月) 00:36:56.03 ID:
フビライの時に元寇があるのだが
これって義経が鎌倉幕府に対する仕返しをして
日本を統治してその思いを遂げようというものなのでしょう
そんなわけないのかな
197:2012/02/07(火) 04:02:23.34 ID:
この話するとモンゴル人スゴく怒るらしいぞ
剣道のルーツは韓国と言われたら腹立つのと同じ
201:2012/03/06(火) 13:17:59.48 ID:
>>197
ぬっちゃけ同じことやってるよな
山田長政がセナピムックだとする根拠もないし

日本もその辺はそうとうアレだ