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1: :2011/09/03(土) 00:45:37.06 ID:
いまでは1185年?

幕府とは何ぞや、ってまったりと議論しませんか?
61:2013/01/16(水) 00:45:16.71 ID:
幕府とは「公儀」って定義したいね。公権力を行使する主体という意味で。現在でいえば中央政府。
江戸時代には、実際そう呼ばれていたしね。

>>1
さて、鎌倉幕府だが、NHK高校講座では次の4説を採り上げていた。
1.1180年説 頼朝挙兵、侍所の設置
2.1183年説 東国支配権の公認
3.1185年説 全国への守護・地頭設置権の公認 
4.1192年説 征夷大将軍への補任

最近は教科書などで3説が多いが、この頃の頼朝の政権はまだ発展途上。
個人的にはいいクニの4説(1192年)を支持したい。
3:2011/09/03(土) 11:53:58.67 ID:
「鎌倉幕府」の成立は1192年以外ありえない。
この年源頼朝に対して征夷大将軍宣下。
これにより頼朝の政権は晴れて「幕府」と呼ばれるようになった。
確かに実質的には1185年に政権が出来ていたかもしれないが、
それは高校レベルで注釈として補足しておけばよいこと。
朝廷の果たしていた役割を、ことさら矮小化しようとする悪だくみを認めてはいけない。
現代だって、運転免許試験に合格したという事実だけでは不足。
免許証が交付されてはじめて運転が許可される。
4:2011/09/03(土) 12:20:56.74 ID:
敵対する軍事派閥が消滅した1185年以後、源氏の天下だから1185年説でもいいんじゃないか?
幕府の本来的意義は戦場に張る本陣を囲む幕のこと。
中国風には柳営と言う。
つまり天子から軍事の全権を委任された将軍のいる本陣こそ幕府である。
軍事氏族が源氏のみになった1185年に日本で幕府がようやく1つになったと捉えればいい。
それまでは2つあったのだ。
5:2011/09/03(土) 14:48:00.24 ID:
別に悪だくみとかそんなんじゃないでしょうw
今では中世史の研究家で守護・地頭を制した段階が政権の成立期であるとする学説が通説だし、
頼朝が求めた地位が征夷大将軍職だったわけではないことも分かっている。朝廷側は頼朝の要求に
右往左往したということも伝わっており、決して好意的に将軍職を宣下したんじゃないから。
6:2011/09/03(土) 15:56:54.81 ID:
在京の官でなければ何でも良かったのだろう。
摂関家が分裂し、九条兼実が頼朝の肩を持ったのも大きい。
幕府成立に摂関家の争いが味方したのは皮肉だ。
7:2011/09/03(土) 18:39:40.13 ID:
頼朝が征夷大将軍を辞任したのは何故?
8:2011/09/03(土) 21:41:48.03 ID:
>>7
鎮守府将軍・平泉藤原氏を倒す口実として、同職を上回る肩書きが必要だったのだが、それも一瞬のことだったため。
10:2011/09/04(日) 01:53:21.71 ID:
>>8
奥州征伐は1189年でしょ
征夷大将軍になったのは奥州征伐より後だが。
9:2011/09/03(土) 22:39:22.28 ID:
結局、土地を支配する者が天下人ってことだっぺ
12:2011/09/04(日) 12:31:07.97 ID:
征夷大将軍は同時期に1人だけという決まりはないな。
頼朝はそんな苔の生えた官職などどうでもいいと思っていただろう。
頼朝の力の源泉は日本国惣追捕使・惣地頭の両職。征夷大将軍など
任命されても兵馬の動員が出来なければ何もできん。
13:2011/09/04(日) 12:43:11.27 ID:
じゃあ何故あれほど征夷大将軍に執着したの?
それから頼朝以降の鎌倉将軍は皆征夷大将軍になってるし。
14:2011/09/04(日) 13:22:14.55 ID:
>>13
>>6参照
京都から来た政治顧問の大江広元あたりの入れ知恵と思われる。
頼朝以降の将軍が就任したのは単に創業者に倣ってだろう。
4代九条頼経は鎌倉下向後7年を経てようやく将軍になっている。
まあ幼少だったのが理由だろうが、将軍不在でも用が足りたわけだ。
18:2011/09/06(火) 09:09:31.34 ID:
>>13-14
征夷大将軍は朝廷からはなれた遠征地で、朝廷の許可なく裁判処断を行使できるからじゃないの。
15:2011/09/04(日) 13:55:18.83 ID:
本郷先生の本だったと記憶してるんだけど、鎌倉武士団の政権を「幕府」と呼称したのは
徳川幕府の頃あたりからだったみたいね。
頼朝も北条氏も幕府を開いたという認識は持ってなかったって。
政権についても朝廷に対抗する意識はそんなに強くなくて(せいぜい鎌倉暦作ったくらいで)、
朝廷側の方が鎌倉武士団の政権を強く意識していたみたいだよ。
16:2011/09/04(日) 14:18:45.31 ID:
>>15
朝廷側が勝手に承久の乱を起こし自滅した観はあるね。
今までの武士は朝廷に擦り寄って来たのに、頼朝がそうしないので
ニュータイプの武士の扱いに戸惑ったのだろう。
17:2011/09/04(日) 19:58:34.58 ID:
じゃあ後白河が頼朝の征夷大将軍任官を認めなかった理由は?
19:2011/09/06(火) 11:28:32.88 ID:
>>17
それを示す史料はなに? そんなのないでしょ?
20:2011/09/07(水) 13:48:14.72 ID:
ぎすぎすしないで、まったりといきましょう。
高橋昌明先生が「六波羅幕府」「福原幕府」を主張されてますよね。
今度の大河が「平清盛」で、しかも高橋先生は時代考証だそうですから、
そうした説はますます注目を集めるように思うのですけれども、どんな
ふうに受けとめるべきなんでしょうか? 
とくに、関西の方にお聞きしたいです。
21:2011/09/07(水) 14:06:36.64 ID:
>>20
幕府という名称より、最高権力の所在がどこにあるかが本質だと思う。
清盛は院政停止を行っているし、後白河を鳥羽殿に軟禁しているから、
事実上の最高権力である。故に六波羅幕府と言っても差し支え無いだろう。

そもそも後白河の登極は、息子である守仁親王を即位させるための中継ぎであった。
故に守仁(二条)崩御後の後白河に政権を主催する根拠が無いのである。
23:2011/09/07(水) 20:07:25.02 ID:
そうとも言えない。
治天の君は時代によってポジショニングが違ってるから。
単なる上皇から院政で最高権力者なった人までいたから。
24:2011/09/08(木) 10:59:35.70 ID:
うん?
複数いる上皇のうち、政権をもってる人が
治天の君じゃないの?
そうじゃなきゃ、「治天」って表現使わないんじゃない?
25:2011/09/12(月) 02:54:16.33 ID:
会社の会長さんみたいなもんじゃないか
会社の経営を握る力を持っている人も居れば単なるお飾りな人も居るみたいな
26:2011/09/23(金) 14:01:23.28 ID:
都に上れば武家は朝廷に取り込まれ、散々頤使され使い捨てにされるのだから、
頼朝が鎌倉から動かないのは理にかなっている。
都から離れていても権力を行使することのできる官職は
征夷大将軍くらいしかないな。
27:2011/09/24(土) 02:01:51.36 ID:
>>26
頼朝は右大将として権力を行使したのでは?
実朝は右大臣にまでなったし。

もし実朝に子孫が続いたとしたら、
清華家としての家格を獲得したかも知れん。
28:2011/09/24(土) 08:16:56.91 ID:
幕府って、国軍最高司令官陣幕のことだろ?

いまは「市ヶ谷幕府」でOK?
29:2011/09/24(土) 12:33:33.54 ID:
>>28
自衛隊の現在の最高司令官は誰だっけ?
30:2011/09/24(土) 12:35:43.80 ID:
征夷大将軍が武士の棟梁という慣例、ってとこがおかしいんだろ。
そんな慣例家康から。
え、じゃあ家康は誰に習って取得したの?
どーん、蝦夷征伐隊隊長は中華思想からみた東夷征服隊の延長です。
倭寇も一緒です。

朝廷に従わなかった蝦夷が関東武士です。
京の王家の血筋者を立てて反乱を起こしました。
相模武士団は京の倭国本山に実力を認めさせて全国に赴任していく。
そして京朝廷はそれをコントロールする者として
源氏を蝦夷征伐隊総帥に任命する。
そしてその婿源氏は地元北条氏に安楽死させられ、
以下、形だけの源氏でもない征夷大将軍を京から受け入れながら
全国勢力としての蝦夷、関東武士の北条氏が支配する。これが鎌倉政権。
32:2011/09/24(土) 13:16:38.39 ID:
足利幕府は必然的に出来た。嫡流に近い源氏が足利しかいないから。
他方徳川は血筋なき覇者だから権威で自己を補強した。これしかあるまい。
33:2011/10/10(月) 09:11:48.84 ID:
幕府なんて呼ばれてないだろ
幕府というのは江戸時代末期に倒幕派が公儀を指して使った隠語だ
藩というのも明治になってそれまでの大名領をそのまま行政単位にした
ときの名前で一年ほどで廃藩置県
江戸時代に藩というものは無かった
だから長州藩というのはなかったし
拙者は長州藩士何々と申す などと言わなかった
36:2011/10/11(火) 05:19:06.22 ID:
>>33
じゃなんて言うの?
「拙者は毛利家家臣、何某」とか?
38:2011/10/16(日) 21:30:58.24 ID:
>>33

「某は松平大膳大夫が家中」とか言う
39:2011/10/16(日) 22:04:15.17 ID:
>>38
全国の大名の官職を記憶しないといけないから大変だね。国替えも発生するし。
たしかにこれじゃあ分かりにくいので、時代劇の考証でアウトだわ。
34:2011/10/10(月) 11:16:50.47 ID:
鎌倉時代は「鎌倉殿」だね。鎌倉武士政権を幕府と呼び出したのは江戸期の儒学者で、
その呼称が定着したのは明治になってから。
42:2011/10/28(金) 01:44:42.99 ID:
>>34
じゃあ「室町幕府」は同時代には何と呼ばれていたの?
43:2011/10/28(金) 08:18:51.13 ID:
>>42
朝廷→関東、東国
御家人→鎌倉殿

統一した呼称はなかったと言われてる。
44:2011/10/28(金) 13:12:20.52 ID:
>>43
レスどもthx。

でもあの、「室町幕府」のリアルタイムの呼称・・・
45:2011/10/28(金) 13:25:17.85 ID:
>>44
だからリアルタイムだよ。
46:2011/10/28(金) 22:19:29.67 ID:
>>45
京都にある室町幕府のことを朝廷が
>関東、東国
と呼び、
京都にある室町幕府のことを御家人は
>鎌倉殿
と呼んでいたの?
57:2012/10/15(月) 08:06:16.39 ID:
すんげえ遅レスだが
>>43
室町のこと聞かれてるのにお前バカなの?
>>46
公儀とか公方じゃない?
南北朝のときは2つ存在しちゃってるけど

47:2011/10/30(日) 00:30:53.88 ID:
>>44
公方(幕府、将軍の地位とも)じゃないの?
35:2011/10/11(火) 05:10:32.88 ID:
幕府が複数出来ると区別の必要が生じる。
そこで「鎌倉」等の地名をつけて呼称する。
他方朝廷一つしか無いので、一々「京都朝廷」とは言わない。
40:2011/10/27(木) 01:42:03.59 ID:
幕府
 少なくとも当事者が自称したことはない(江戸時代に至るまで)
 政権を指す学術用語として使われるのは明治以降
征夷大将軍
 後白河が認めなかったのは畿外にあって独断専行で検断権を行使できる権能を持つため
 頼朝の辞任は大姫入内運動との兼ね合いだろう(権大納言、右大将辞任とは意味が異なる)
48:2011/10/30(日) 00:47:58.13 ID:
清盛の政治顧問であった平時忠の息子の時家が
鎌倉で頼朝の政治顧問やってたんだって?

面白いな
49:2011/10/30(日) 21:46:31.67 ID:
>>48
幕府も出来たころの院と同じで、家柄が低くて出世できない貴族の勤務先だった。
だから院も幕府も朝廷と併存できる。決して単なる暴力装置ではない。
51:2011/12/06(火) 17:28:22.27 ID:
鎌倉は三方山で囲まれた天然の要害は歪曲

鎌倉幕府滅亡の際の戦闘も中先代の乱も時行から鎌倉奪還した尊氏の鎌倉入りも
数日で勝負がついている。
鎌倉が攻めにくく守りやすい土地ならば、これほど次々と陥落することはあるまい。
そもそも鎌倉が城塞的な都市であることの根拠は少ない。

鎌倉を戦場とした和田合戦、宝治合戦、霜月騒動などは鎌倉の市街戦であり、
天然の要塞にふさわしい合戦は見られず、宝治合戦の折に、三浦氏が切通や
切岸で苦戦したという話も聞かない。

三方山が城塞の役目をしていたのなら、山の外に建長寺や円覚寺
時頼が私寺の最明寺を建立したのは違和感を覚える

段葛の遠近法を利用した作りも徳川秀忠が再建した当時にヨーロッパで大流行した手法で
当時の作庭のほとんどに関与していた小堀遠州も西洋人から勉強しており段葛で実戦した

釈迦堂切り通しや大切岸などは明治時代の石切り場だったのが定説
極楽寺周辺は砦でもなく海運を掌握していた経済的側面が強い

鎌倉が城塞的な都市だというのは武士の都であるがゆえのイメージでしかない
53:2012/05/04(金) 05:39:49.32 ID:
>>51

鎌倉幕府の滅亡の時。

幕府の水軍が戦闘した記録がないみたいだが
幕府は水軍を活用すればもうちょっとは粘れたんだろうか?
55:2012/05/08(火) 23:31:45.99 ID:
>>53
新田勢の三木俊連が極楽寺坂の裏から忍び込み火を放った
→稲村ケ崎を守っていた北条軍の軍船がつられて移動
→新田義貞が稲村ケ崎の引き潮を利用して鎌倉府内へ侵入
52:2012/02/01(水) 12:50:53.60 ID:
そもそも事実上政治的にいわせてもらえば、


1 事実上常に日本は地方府があった。
2 分国体制である
3 そして事実上江戸時代ないし最近までは統一された政府機構すらない。これ現代でも行政的にはにてるんだけどね。

さてその状態で、
そもそも鎌倉政府以前には順次的統一政府などはない。鎌倉ですら分国連合体制なのに、

それ以前は事実上連合統一府そのものがない。



54:2012/05/04(金) 16:16:25.30 ID:
焼け石に水
56:2012/05/09(水) 10:58:38.42 ID:
なるほど。

稲村ヶ崎に水軍が入れば、もうちょっとは粘れたのか。

まあそれでも幕府は倒れただろうが。
58:2012/11/01(木) 11:36:10.34 ID:
鎌倉陥落の時、庶民の女達は乱暴狼藉に遭ったのか?
59:2012/11/01(木) 13:57:32.02 ID:
当時「幕府」という言葉は使われていたのか?
鎌倉様とか鎌倉殿、と言われていた、という説
を聞いたことがあるが。
60:2012/11/03(土) 06:29:41.49 ID:
公方とか御所とか呼ばれた時期もある。
62:2013/02/21(木) 18:06:58.15 ID:
結局1185年説が有力になったのは、
支配とは土地制度の問題だという認識から来てるんだろう。
66:2013/02/22(金) 23:08:43.68 ID:
鎌倉幕府のトップは途中から執権に。
67:2013/02/22(金) 23:38:31.42 ID:
鎌倉幕府の成立は頼朝軍が鎌倉に入って南関東に政権が成立した1180年では。
そして幕府が武士たちの所領の領有権を保証する実力をもったときが、鎌倉時代の始まりといえる。
68:2013/02/23(土) 19:42:55.57 ID:
1183年10月の宣旨が重要。これを画期に反乱軍・私政権→東国支配に係る公権力 だから。
69:2013/04/13(土) 19:00:42.14 ID:
実は学者の間でも幕府の成立はいつなのか、多くの説が対立しており、
今日でもまだ決着がついてはいないのだ。
ある日、あるとき、頼朝がおごそかに鎌倉幕府の成立宣言を読み上げたことなど一度もなく、
そもそも当時、「鎌倉幕府」ということばが存在しなかったからである。

A説 1192年 頼朝、征夷大将軍となる
B説 1190年 頼朝、右近衛大将となる
C説 1184年 公文所・問注所の設置
D説 1180年 南関東に軍事政権が成立
E説 1185年 頼朝、日本国総追捕使となる(いわゆる「守護・地頭」の設置)
F説 1183年 十月宣旨の獲得

わたくしは以上のうちA・B・C各説はいずれも
現在、ほとんど問題にならない、と考えている。
のこるD・E・F説は、それぞれに鎌倉殿を首長とする
軍事政権成立の各段階をとらえているが、
ここでは一応、なかでもその成立をもっとも早くおくD説に従っておく。
たとえ地域的にはまだ南関東一帯にしかすぎなくとも、このときすでに
鎌倉殿をいただく軍事政権としての特徴は出そろっている、
と考えるからである。
むろん、それはE・F両説があやまりだ、ということを意味しない。
その根拠となった事実は、どれもたしかに重要な目じるしであり、
幕府は1180年末にひとまず「成立」したとしても、
内乱のなかで成長をとげ、
1183年十月宣旨をへて、1185年11月末にいたって
ようやく「確立」した、というのが正しいだろう。
(石井進 『日本の歴史』)
70:2013/06/10(月) 20:54:48.20 ID:
寿永の宣旨をもらうまでは頼朝は反乱軍であって独立王国なわけだ。宣旨によって政権が合法化された。
兵士滅亡後 頼朝の勢力は西日本に及んだ。sy護持等の設置によって 頼朝は朝廷から軍事警察権と徴税権の一部を
移管されたわけだ。

それと、ここまでで「柳営」という語句に触れた人がいないのに驚き。
ここの住人は建武式目読んだことないのか?
73:2013/07/13(土) ID:
頼朝が宣言をしなかったから
色々解釈が出来て諸説出来たって事
説は1185と1192だけじゃ無く
1180~1192までの間にたくさんあるな
74:2013/07/13(土) ID:
鎌倉の世界遺産登録を目指して
幕府跡の発掘が必要みたいな事を
文化庁長官が言ってるな
76:2013/09/18(水) 00:51:40.29 ID:
幕府という言葉を使いたければ、近衛大将の年じゃないのか
77:2013/09/22(日) 15:41:25.31 ID:
幕府という単語が定着してのは明治の歴史教科書のせい。
平氏政権や織豊政権を幕府にカウントしてもいいと思う。頼朝 尊氏の将軍職補任は、
政権の実態が成立した後の称号授与みたいなもんで、政権の承認ではないし。
78:2013/09/22(日) 17:39:23.06 ID:
じゃ室町幕府ができたのは建武式目を制定した1336年か??
79:2013/09/22(日) 17:54:17.76 ID:
鎌倉時代の鎌倉は人口どのくらい?
80:2013/10/04(金) 08:38:31.91 ID:
現代に生まれてめっちゃ幸せやん
81:2013/10/30(水) 02:27:24.15 ID:
1182年にさらに訂正されるらしい
82:2013/11/15(金) 02:53:41.96 ID:
もう複数説併記とか
徐々にって感じになってるな
83:2013/11/15(金) 22:15:48.44 ID:
日本人であれば京都・奈良を日本の都・聖地としてたたえる。
キリスト教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように

・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。
ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。

・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
二十二社は京都をはじめ畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。

・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。

・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地

・日本の世界遺産もその多くが京都・奈良に存在している。
84:2013/11/21(木) 09:42:48.81 ID:
いいハコ作ろう鎌倉幕府
92:2014/07/11(金) 07:01:54.62 ID:
北条氏が本当に平氏ならなんであんなに没落していたんだ?
93:2014/07/11(金) 09:28:27.12 ID:
>>92
都から貴人が来た→地方豪族が自分の娘を夜伽に侍らす→生まれた子は天皇の末裔
なんてのは幾らでもあると思うけどな
北条が本当に平氏かどうかに関わらず
95:2014/07/15(火) 02:50:50.69 ID:
捨てられても子供は、貴種の子として田舎では一目おかれるんじゃね
96:2014/07/30(水) 14:50:38.53 ID:
幕府にとって征夷大将軍の存在は欠かせないからこれまで通りの1192でいい
97:2014/07/30(水) 15:34:55.70 ID:
実質は1185年だけどな
101:2014/08/15(金) 23:12:30.25 ID:
>>97
徳川政権の始まりも1600年からだな
98:2014/07/30(水) 17:24:40.02 ID:
室町幕府・江戸幕府の成立は
足利尊氏・徳川家康が征夷大将軍に任じられた時で争いはないのに
鎌倉幕府だけおかしいよな
99:2014/08/02(土) 12:03:05.97 ID:
鎌倉幕府は次第に武家政権としての骨格を定めていったので、「このとき、
鎌倉幕府が成立した!」と言える瞬間がないのだろう。
征夷大将軍任官がその決定的瞬間とも考えられない。

征夷大将軍は源頼朝にとってそれほど価値の高い官位だったのだろうか。
任官後まもなく辞任しており、「将軍であることによる権限」は特段なかっただろう。
また、源頼朝の呼称は「右大将家」(右近衛大将)であり、頼朝の地位の高さを
象徴的に示す官位は、右近衛大将だったのではないか。
100:2014/08/03(日) 22:40:58.89 ID:
鎌倉ハム大安売り
102:2014/08/16(土) 20:51:18.26 ID:
頼朝が落馬したのを、武家の棟梁が落馬なんて不自然だから暗殺に違いないっていうけど
体力が衰えていたら別に不自然でもないな。
佐竹義重も生粋の武士だけど落馬で死んでるのに。
103:2014/08/16(土) 22:15:32.55 ID:
そもそも当時の武家政権を「幕府」という言葉で定義することが適切ではない。
将軍の本営を表す言葉としてなら構わないが、政権の名称として使うのはおかしい。
どうしても定義が必要なら単に「鎌倉政権」「足利政権」「徳川政権」とかでよい。

「幕府」という名称のせいで、
征夷大将軍に就任した年がいつだから、幕府の成立がどーたらとかいう話になるが、
征夷大将軍なんて、頼朝の時に余ってた名誉職ってだけで、それ自体たいした意味はない。
たいした意味のないものにこだわるなんて、そらもうナンセンスよ。
104:2014/08/18(月) 15:10:20.63 ID:
山槐記によると頼朝は単に大将軍になりたいので相応しいのを選んでくれ
と朝廷に依頼、朝廷は幾つか候補を挙げて吉例(坂上田村麻呂)だから
征夷大将軍でいいだろとなったようだがどうなんだろうね?

あと「幕府」というのは近衛大将の唐名じゃなかったっけ?
105:2014/09/09(火) 10:33:15.51 ID:
幕府という言葉ができたのは幕府だっけ
106:2014/09/09(火) 18:22:27.92 ID:
江戸時代中期
107:2014/09/14(日) 21:15:47.43 ID:
東国武士の願いは平将門から同じ
源頼朝は神輿
だから源氏本流が滅んでも鎌倉幕府は続いた
108:2014/09/16(火) 17:09:12.13 ID:
摂家将軍、宮将軍は鎌倉幕府特有のもの
109:2014/10/02(木) 16:56:49.96 ID:
御家人達にとっては武家政権さえ確立すれば将軍なんてお飾りで十分ってことだな
110:2014/10/13(月) 23:17:37.09 ID:
そうそう
政権を確立した時点で源氏は用済み
112:2014/11/03(月) 20:18:18.80 ID:
応仁の乱以降の将軍もお飾りだし
115:2014/12/02(火) 17:48:50.84 ID:
そもそも幕府の定義とは何かって話だな
幕府という単語時代が江戸時代末期にできたものなら
118:2014/12/06(土) 03:10:54.72 ID:
>>115
幕府という単語自体は平安からあったのが説明をめんどくさくしているな。

頑なに征夷大将軍=幕府説を信じ込んでいる奴に
幕府なんて江戸時代の発明で頼朝も家康も幕府のばの字も知らなかったんだよばーか
と言えないのがもどかしい。単語くらいはさすがに知ってたはず(てか頼朝は右大将だし)

武家政権という意味で幕府という言葉が使われだしたのは~
って長ったらしくてインパクトが薄い。
138:2015/07/28(火) 18:55:35.15 ID:
>>118
幕府という言葉にこだわるなら右大将に任官した時が鎌倉幕府の始まりだな
116:2014/12/04(木) 03:02:42.46 ID:
源家将軍が途絶えた後の空白も鎌倉幕府だったり
足利義昭が追放後も征夷大将軍だったのに追放時を持って室町幕府滅亡と言われたり

征夷大将軍=幕府、ではないのは間違いない。
117:2014/12/05(金) 19:34:05.00 ID:
付け加えるなら
建武の新政時に大塔宮とかも征夷大将軍になってるけど
幕府があったわけじゃあないしな
その後南朝方の興良親王も征夷大将軍になってるけど
南朝が幕府を開いてるわけでもない
征夷大将軍=幕府説をとるなら
>>116の指摘もふくめ問題点が多いことは事実
119:2014/12/06(土) 12:55:23.72 ID:
しかし、幕府の定義を単に武家による中央政権とするなら
織田政権や豊臣政権も幕府に含まれるな。
120:2014/12/06(土) 15:26:31.41 ID:
実際福原幕府なんて提唱してる人もいるみたいだしな。
121:2014/12/06(土) 19:54:32.69 ID:
鞆幕府というのもあったとかなかったとか
123:2014/12/06(土) 20:23:25.47 ID:
いっその事幕府という概念を取っ払ってみるのも良いかもね。
昔は幕府なんて誰も意識してなかったんだから
じゃあ尊氏は家康は何を思って統治機構を作り上げたのか。