20140604-001011
1:2013/12/21(土) 13:08:34.10 ID:
8割の農民が5割の米を消費
2割の農民以外が5割の米を消費
よって、農民の4倍食べていたのだろうか?
それとも、輸出していたのかw
2:2013/12/21(土) 15:04:12.47 ID:
農民はダイエットをしていて、武士は太っていた。
4:2013/12/22(日) 16:24:31.78 ID:
農民が10割の米のうち、5割を売って貨幣代納していた。
よって農民が5割を消費。農民以外が5割を消費。
結局同じだね。


6 :2013/12/22(日) 16:51:55.54 ID:
>>4
米以外のものを売って金銭に変えて納めるってことは考えないの?

っていうか、マジで聞きたいんだが、
あんた本当に
「農民が5割を消費。農民以外が5割を消費」
してたかも知れない、とか
本気で思ってるわけ?不思議だな
14:2013/12/23(月) 11:48:19.45 ID:
>>4
いくら金持ちでも、ご飯を5倍食べることは出来ない。
作った米は誰かが食べないと値打ちがない。
食料だからさ。
時々、米は貨幣の代わりだからというやつがいるが、
なんで本気でそう思うのか
不思議でしょうがない。
教科書がそう書いてるけどさ。

よく考えてみてくれ。米は、毎年収穫できるんだよ。
領主の元へ収められた年貢米は、
売却しお金に変えられたから意味がある。
部下に食料として渡すだけではない。
それを売って、衣類やその他消耗品を
買わなくてはいけない。換金性のない米など意味が無い。

教科書だけだと、ほんとに歪む。
15:2013/12/26(木) 20:56:19.60 ID:
>>14
いやいや、「米イコール貨幣」ってのと「米本位制」はちがうだろ
17:2013/12/27(金) 06:35:06.52 ID:
>>14-15
こういうのを見れば、イメージしやすいかもね。

一例として、彦根藩札の額面が米単位。
こういった「米札」、「米手形」、「米切手」といったものは
金札銀札などと同じように広く発行され流通していた。 

no title
 

この画像の札であれば、札自体の価値は
「中江・山田屋」
という商人によって銀壹匁の価値が保証されている。
この札の信用が全く落ちていないと仮定すれば、取引きでは銀壹匁の貨幣と
同等で、米を買うときには「米二升」ではなく、
「その時々の米相場に従って、銀壹匁で買えるだけの米」
と引き換えられた。
額面の「米貮升」というのはあくまで目安。
5:2013/12/22(日) 16:31:59.42 ID:
慶安の御触書
7:2013/12/22(日) 16:57:39.52 ID:
農民が少ない気がする。
農民85 その他15ぐらいじゃないか?
9:2013/12/22(日) 17:17:10.33 ID:
「輸出」=外国に販売の意味なら、
長崎で中国オランダ辺りには広い意味なら相当するだろ。
あとはアイヌ相手の交益。

文化の頃にロシアとの交易が成立したらその後の歴史はどうだったか。
10:2013/12/22(日) 17:18:16.54 ID:
農民からすれば、

四割を政府が持って行き、残りの6割のうちの
大半を家族が麦飯として食らったって感じだからな。

養える家族にジジババを加えるか、それらを山に捨てるか。
エネルギーのおかげで、近代文明はジジババを養える社会を作った。
再生産を無視した社会は滅ぶからな。
12:2013/12/22(日) 18:16:09.52 ID:
日露戦争の後、帝政ロシアと緊密な外交関係が出来上がったにもかかわらず、
日本はシベリア出兵で、必ずしも現地住民と友好関係が徹底できなかった。

その結果が今だ。
16:2013/12/27(金) 06:21:27.30 ID:
米ばかり食うのは武士と江戸などの町人、医者や坊主、
それに在郷の庶民のうち、
体を資本にする肉体労働者たち。
もちろんそれら全て集めても、農民からすれば数は少ない。

逆に、農民は米をあまり食わなかった。
麦飯や雑穀飯ばかり。
年貢供出の後に残った米も、一部あるいは大半は、
米商人に売って現金収入としていたくらいだ。
商品作物を作っているところでは、やや生活水準も高い。

つまり、米は余るのではなく、
もともと生産量が少なかったと判断する他ない。
土地の石高は、米の値に換算した生産力を表したものだからな。
麦は米より若干安い値で流通していたから、
米が余っているように見える分は、
実は米でなく麦として生産消費されていたという話。
年貢はもちろん、米を優先的に供出した。
生産が米と麦半々なら、農民の手元に残る米は、
四公六民として、生産量の五分の一だ。

大規模な土地改良ができなかった当時は、
田んぼごとに収量が極端に違った。
田んぼ一枚ごとに収量評価がなされていたくらいだ。
しかも肥料もろくに施せないから、収量は総じて今より少ない。
大正期の化学肥料の導入によって、
米の面積あたり生産量は倍になったくらいだ。
今の水田を見慣れていると、そういうこともイメージしにくいけどね。
18:2013/12/27(金) 07:20:38.50 ID:
>>16に補足。
米の一人当たり消費量は、数が少ない武士や町人、
在郷の労働者たちが圧倒的に多かった。
武士や職人などの労働者は体が資本だからと言って、
摂取カロリー自体が多い上に、麦混じりの飯でなく米飯だからな。

今の食事では副菜から摂るカロリーが非常に高いけど、
当時は肉は食わず、魚もホイホイとは食えない。
だから米の飯ばかりを漬物や味噌汁で無闇にかき込んだ。
その結果が、江戸の脚気の流行だ。

また、商品作物栽培で年貢を代銀納にしてる農家では、
当然ながら農民だけど米や麦を買って食うことになる。
そういった要素も踏まえなきゃならない。

そういった形で、米は一年の内にほぼ消費され、
一部は売れ残った古米や飢饉用備蓄米として翌年の収穫以後まで残り、
不作凶作のときにそれらも消費されたわけだ。
52:2013/12/29(日) 10:31:56.36 ID:
>>18-19
すげぇなコイツ
昭和からタイムスリップしてきたのか
53:2013/12/29(日) 15:17:03.92 ID:
>>51
麦も市場に出て売買されているのだから、
米どころで米が収穫の中心の農家が
そういう麦を買うわけだ。
お前、あんまり頭がよくないな。

>>52
「農民は貧しかった」と「農民は案外豊かだった」とは、
散々史学でも議論されてるけど、
ろくに議論の内容を知らない人間が結論だけ聞くと、
現代人としての主観が入りまくって
まともに判断できないんだよな。

大正戦前期でさえ、農民の多くは米だけの飯なんて
そうそう食う機会がなかった。
それは、当時編さんの地誌やら今の民俗学関係の聞き書きなどで
いくらでも確認することができる。

そのレベルの事実でさえ、ろくに物を知らない子は平然と否定してのける。
こんなレベルの話はいくらでも事実として
記録に残っているんだから、それを主観で
否定しようとしても見当外れの話にしかならないよ。
22:2013/12/28(土) 14:02:34.11 ID:
>>20
いや、手元に米があれば、少しでも現金収入を増やすために
自家の消費分だけ残して売り払い、
麦を買って雑穀と一緒に食ってたんだよ。
たとえば奈良盆地は米どころで、
商品作物栽培によって他所よりは裕福な家が多い土地柄だけど、
大正時代に編さんされた地誌では、
米だけで食うのはごくわずかで、大部分の家は麦交じりの飯。
特に貧しい家では麦飯の粥ってのも珍しくないと書いている。
それぞれの実際の比率も書いてたけど、数字は忘れた。
繰り返すけど、これは江戸時代よりも生活水準が向上した大正時代の記録だ。

>さらに、米と同じだけ麦を取ろうと思ったら、5倍の耕地が必要だ。

米の農地面積あたり収量を今と同じと見積もらないように。
>>16で説明済みだ。
それに、水の確保は農民にとって死活問題で、
ちょっと日照りになれば隣村との水論に発展するし、
そもそも水利権の関係で、農地はあっても
水が引けないから畑にして麦を作るってケースは少なくない。
農民ならごく当たり前に理解できることだろう。
今の各地の耕地は、明治以後に国が積極的に
水路を整備していった結果だってことを忘れちゃいかんよ。

ま、米どころか麦すら贅沢で、
稗や粟や黍などが農民の主食のメインだったという主張なら、
少なくとも貧しい村ならその通りだったと言うしかない。
ごく最近にも、山村のような極端に貧しい土地では、
米を食うどころか見たことさえないという人もいたりした。
昭和の戦前あたりでさえ。
病気でいよいよ死にそうだとなると、
家族は里に下りて一握りの米を買い求める。
で、それを炊いて食わせるのではなく、
竹筒に入れて耳元でサラサラ音をさせて冥土の土産にした。
そういう土地の郷土資料館には、
実際にそうやって使った竹筒が展示されていたりする。
稗や粟や黍などの雑穀はカロリーが低いから、
そんな貧しい村でも一日に4回も5回も食事を
してたなんて話もあるけどね。
それだけくわにゃきゃ農作業ができなくなるんだとさ。

何遍でも繰り返すけど、今の日本の農地は
江戸時代の状況とはまるっきり違う。
それをわきまえておきなさい。
24:2013/12/28(土) 14:15:43.22 ID:
>>22に補足。

「農民には米や麦すら贅沢で、稗や粟や黍を食っていた」
という話であっても、
稗や粟や黍を栽培する畑がなければ話にならない。
つまり、農家が農家としてやっていく以上は、
家を受け継いでいけるだけの農地を保有していたのは自明だ。
 
19:2013/12/27(金) 07:31:36.29 ID:
>年貢はもちろん、米を優先的に供出した。
>生産が米と麦半々なら、農民の手元に残る米は、
>四公六民として、生産量の五分の一だ。

これに補足。
本途物成は田んぼは米、畑は麦や大豆で4公6民などと言われるけど、
実際には「農民は生かさず殺さず」の水準まで
年貢率を引き上げるから、その匙加減で
高値で売れる米がゴッソリ持って行かれることになる。
20:2013/12/28(土) 12:11:32.82 ID:
貧しい農民はコメを食べずに麦を食ってた・・・
いや否定はしないよ。
もちろん麦だって食ってたと思うよ。
だけど、こういうのを云う奴って、農家出身じゃないんだろうな。

麦を作るにも農地がいるんだよ。
さらに米と同じだけ麦を取ろうと思ったら、
5倍の耕地が必要だ。
東日本なら可能だろうけど、西日本ではそんな無駄な土地の使い方は出来ない。
水が引ける限り、山の斜面に段々の田んぼを作ってる。
川の上流から、長い水路で田んぼまで水を引いて水田を作ってる。
あらゆる労力を使っても千枚田のようなものを作ったのは、土地生産性が高いからさ。

米さえ食えない小作の貧農が、家族に食べさすだけの麦を作れる畑を
所有しているなんて、お花畑も程がある。
21:2013/12/28(土) 12:19:51.80 ID:
戦後、貧しい家庭では麦飯だったんだが。
23:2013/12/28(土) 14:06:06.07 ID:
>>21
第一次大戦後の戦後不況では、
政府が「貧乏人は豆粕を食え」と呼びかけた。
満鉄沿線で取れる大豆から油を絞り、
その粕は有機肥料として重宝されたけど、
それを食えというわけだ。
まあオカラみたいなもん。
25:2013/12/28(土) 14:27:46.50 ID:
>川の上流から、長い水路で田んぼまで水を引いて水田を作ってる。

ここまで分かっているなら、諸領が錯綜していた
関東関西東海をはじめとする米どころでは、
他領にまたがるような水路はなかなか作れなかったという事実に気付くべきだな。
計画が持ち上がっても、何かというと利害対立でご破算になることが多く
完成にまでこぎつけるのはごく一部だった。
28:2013/12/29(日) 00:04:24.88 ID:
個々の農民とか貧しい農民のことを言ってるんじゃないよ。
人口の8割を占めた農民が、米をろくに食わずに麦を食べていたというのが
事実に反するって言ってるだけ。
米は食料だ。毎年とれる。いくら金持ちでも5倍食べる訳じゃない。
誰かが米を食べていたんだ。麦が混じることだってあったろう。
だけど、メインは米だ。

麦は連作障害もある。反収も低い。
人口の8割の農民が主食にすることは出来ない。
30:2013/12/29(日) 00:53:36.62 ID:
農民が麦が主食だったら、冷害で餓死者が出ることはないよな。
34:2013/12/29(日) 05:38:14.67 ID:
>>30
米は秋、麦は春が収穫だからね。
江戸時代は食糧生産量に余裕はないから、秋に米が必要なだけ
得られなければ、春まで食いつなげなくて大飢饉になる。
食糧確保量が例年の三割減になれば、
全員が三割分を買い控えるわけがなく、金持ちは10割以上を
買い占め、貧乏人には手が出ない高値になるからな。

天保の飢饉では、米の大凶作が確定した夏ごろに
米相場が不気味に上昇をはじめ、前年の収穫の備蓄が
底をついた秋には暴騰、冬にも更に上がって餓死者
病死者のピークに達し、春には麦の収穫によって米相場も下がった。
もちろん例年よりは高いけど。
なお、麦相場は、米よりやや低いだけという値で連動する。
平時でも飢饉でもね。

米が大凶作と分かれば、農民はそれらを引き抜いて
麦や雑穀などを植えさせてくれるよう領主に嘆願する。
空き地などにもせっせと麦や雑穀などを植えていくわけだけど、
秋冬でいよいよ備蓄が底を突くと、
せっかく芽吹いた麦の芽を引き抜いて食い始めるわけだ。
流民化した他所の土地の農民どもが。それではどうにもならんわな。
31:2013/12/29(日) 02:48:23.82 ID:
天保郷帳によると1835年頃の日本の総石高は3056万石
また地租改正直前の1872年の日本の総石高は3237万石
日本の総人口は1872年に3311万人
(出生率等から修正された推定人口は3481万人)

これだけだと1人1石の米があるように見える。

ただし石高は、田+畑+(屋敷)の合計で、米以外の分も含まれる

実際の米の生産高(玄米)は、明治の統計によると(人口は翌年の1月1日付)

2575万石 明治7年 人口3400万人
2474万石 明治9年 人口3463万人
2660万石 明治10年 人口3490万人
2528万石 明治11年 人口3577万人
3168万石 明治12年 人口3593万人
2877万石 明治13年 人口3636万人
2992万石 明治14年 人口3670万人
3045万石 明治15年 人口3702万人

つまり国民全員に1人1石の玄米が行きわたっていない
32:2013/12/29(日) 02:59:02.70 ID:
>>31
なおこの米の収穫高の数字については、
農民が地租改正を恐れて嘘を申告しているという反論がある

例えば明治13年の米の収穫高は作付面積257万町に対して約1.2石/反だが、
実際には1.4石/反ぐらいであれば、3590万石ぐらいの収穫になる

ただし、実際には精米のロスを考えると、
毎日国民全員が米飯を実施するためには
1人玄米1.2石ぐらいの収穫が必要であり、
やはり全員が米飯100%を実行するには米が足りない
35:2013/12/29(日) 05:46:58.07 ID:
ちなみに、米のロスの大きな原因として酒造がある。
飢饉では幕府が酒造株あたりの生産量を引き下げるようにお触れを出したりする。
しかし、米相場の暴騰で大儲けする商人どもが酒を湯水のごとく消費するのが
分かっているから、酒造家たちも、酒造株はあるけど生産はしていないって所から
株を借りて増産するなんてことまでやっていた。

>>32
人一人あたりの米消費は、よく言われている
「1人当たり1石/年」よりは大きいよ。
そのソースを探してる内に、このスレの趣旨そのもののサイトが見つかった。

http://navy.ap.teacup.com/straphanger/526.html
36:2013/12/29(日) 06:01:51.77 ID:
>>35のリンク先のデータを使って計算した。
江戸時代の農民が食ってた飯は、
米:麦雑穀の比は4:6くらいになるようだ。
もちろん裕福な家ほど米の比率は大きくなるから、あくまで平均。
これでは今の白飯と比べれば味は格段に落ち、ハレの日に食う白飯が
さぞや恋しかったことだろう。
56:2013/12/29(日) 17:08:26.76 ID:
庶民の生活は、室町期の東山文化波及と、
戦後の高度経済成長期の文明化によって格段に変わった。
戦前までの生活について、ドラマなどで大都市中産階級などの生活が
イメージとして刷り込まれてしまうと、
まったく正しい認識がもてなくなるんだよな。

もちろん江戸時代の庶民の生活というのも、
飽食の江戸や、最先端農業地域の上方在郷や、
しばしば大飢饉に見舞われた奥羽や、米さえ見たことがない人間ばかりの
極貧の山村では全く生活水準が違う。
中途半端にしか知識がないと、大抵は平均以上に豊かだった
土地のほうが自分のイメージに近いために、
そういうところの 情報ばかりを頭に入れて、
平均とはかけ離れた認識を強固に持つことになる。
それではまともな認識がもてないよ。

「戦前までの農民は、麦や雑穀交じりの飯を食っていた」
というのは、議論すべきことじゃない。
知識として頭に入れておくべきことなんだよ。
>>35のリンク先にもそういう事実が書かれているようにね。
民俗学をかじっていれば常識レベルだし、
各地の民俗学的聞き書きの類も、今なら大正生まれの人たちが
生きているから。
新刊としてさえ次々に出版されている。
案外、各自自分の住んでるところの近辺のものが
あるかもしれないから、調べてみてはどうか。
74:2013/12/29(日) 19:46:37.17 ID:
>>73
その前はもっと少ない
>>31
76:2013/12/29(日) 20:08:58.02 ID:
>>74
そうであったとしても、
「江戸の農民は米は殆ど食べられず麦飯や雑穀ばかり」
は間違いだ。

米だからこそアジアの高い人口密度が可能なんだ。
ヨーロッパの広大な農園は、麦の反収が低かったため。
今は高くなってる国もあるそうだが。
77:2013/12/29(日) 20:11:59.87 ID:
>>76
自分は一度も
「江戸の農民は米は殆ど食べられず麦飯や雑穀ばかり」
なんて主張してないけど?

石高3000万石=米生産3000万石=人口3000万人

という単純な図式が成立しないということを言いたいわけで
79:2013/12/30(月) 05:26:56.24 ID:
>>76
麦飯や雑穀飯は、米半分、麦や雑穀が半分の飯。
比率は1:1とは限らないけど。
「米の飯が食えない」ってのは、米100%の飯が食えないという意味。
山村であれば、文字通り、
米0%の雑穀ばかりを食ってた土地もあるけどね。
45:2013/12/29(日) 07:47:31.62 ID:
こういう話も、
「農民が白飯を常食するようになったのは戦後」
という常識さえ知っていれば
議論がこんな風に脱線することもないんだけどね。
知識のない奴が多いからこうなる。

主食に関しては、明治大正戦前期の農民でさえ、
江戸時代の江戸の庶民よりも下だったんだよ。
江戸は、乞食でさえ白飯を貰おうとしたくらいの飽食都市だった。
50:2013/12/29(日) 09:30:01.30 ID:
単に二人扶持三人扶持程度の場合には、
諸藩が庄屋などに勝手方役人としての仕事をさせる場合に、
格式として武家奉公人の形を取るために与えるような形式上のものじゃないのか。
そういう例はいくらでもある。うちの先祖もそうだった。
54:2013/12/29(日) 16:59:10.35 ID:
明治3年に、過去5年間の各府藩県の税収を調べたところによると、
総内高3220万石に対して1070万石しか現石(税収)はなかった。
また廃藩置県後の明治5年の税収は、総石高3160万石に対して1258万石

よって五公五民も税金を取られたという認識自体間違いで、
実際には多くの地域で四公六民だった

幕末の総人口3300万人の内、8割近くの2600万人が「農」の人口(壬申戸籍)
しかしながらこれには漁師・非米生産農家も含まれる

幕末の玄米の収穫高2800万石の内、1200万石が年貢米としてとられ、
1600万石が「農」のところに残る

「農」1人が消費できる玄米は0.75石
実際には100%米飯した場合の玄米の消費量は1.2石程度になるので、
「農」の米飯率は平均62%ぐらいになる
66:2013/12/29(日) 18:27:15.03 ID:
>>54
幕末の2800万石ー酒200万
1人一食ご飯二杯で150g×3回×365日=164250 そばもうどんも餅もを食べることも
あるだろうから、333日分で1人一石。

非農業700万人×1石=700万石
農民 3300万人-700万=2600万人 2600万石÷2600万人=1石

農民にも一石残るな。
55:2013/12/29(日) 17:08:20.95 ID:
1200万石の内、武家・武家奉公人・寺社等350万人が
1人平均1.2石の玄米を消費したとすると残る780万石が流通米となる

一方明治7年の府県物産表によると、清酒だけで312万石の生産があり、
味醂・酢・米粉等を含めると332万石
精米の過程のロス等を考えると、
約400万石の玄米が加工用に使用されるので、残りは380万石

これを残りの非農業人口350万人で消費すると、
1人0.92石しか玄米を消費できない
57:2013/12/29(日) 17:09:23.01 ID:
結論をまとめると、
実際に年貢米として徴収された米は幕末の時点で1200万石程度
そしてこの1200万石の内、
【加工用として400万石の米が消費される】
ということが、無視できない要素となる

人口の2割の約700万人が残りの800万石消費したとすると
1人1.1石強に相当するが、実際には「農」に含まれる
漁業・非米生産農家(米ではなくて銭等による納税)が
数百万人単位でいるわけで、
結局全部日本国内で消費使用としても、1人1石にも足らない

つまりトータルで見ると、余った米は輸出にまわされるのではなく、
酒などの嗜好品で大量に米が消費されていた
69:2013/12/29(日) 18:46:40.30 ID:
まあ、最終的な結論、
「庶民は白飯を無闇に食えなかった」
ってところは異論がないっつーか
こっちも散々主張してきたことなんで、
「酒造で消費される米は無視できないほど多い」
を結論にして話を終わろうか。
72:2013/12/29(日) 19:19:05.07 ID:
「石高」というのは土地評価で、
実際に米の収穫高が3000万石に達していたかどうかは微妙
73:2013/12/29(日) 19:44:36.76 ID:
>>72
明治の初め頃のトン数からすると、そんなに極端な差はないと思うよ。
明治16年、4566000トン(3044万石)不作らしい
明治20年 5970000トン(3980万石)豊作らしい
75:2013/12/29(日) 19:58:52.75 ID:
石高に占める田、畑の割合は、
全国的な統計が残っているわけではないので、
実際の数字は不明だが、
例えば1646年の「正保三年 肥後国郷帳」によると

本地田方:37万8752石1斗6升2合
本地畑方:19万5512石0斗4斗
本地小物成:5447石5斗8斗5合
本地石高合計:57万9711石7斗8斗7合
新田田方:2万3777石1斗6斗4合
新田畑方:1万4314石1斗2斗6合
新田石高合計:3万8091石2斗9升
肥後国総石高:61万7803石0斗7升7合

で、田の石高40万2529石3斗2升6合は総石高の65%に過ぎない。

肥後の総石高は、明治5年の時点で
85万1237石0斗5升2合9勺1才に増えているので、
1650年頃の田畑の比率を保っているのなら、
明治初期の肥後国の田の石高は約55万石程度と見積もれる

実際の明治初期の肥後国の米の収穫高は、全国農産表によると
82万0385石 明治9年
62万5310石 明治10年
56万4963石 明治11年
79万1357石 明治12年
62万5302石 明治13年
84万3277石 明治14年
67万3106石 明治15年
70万6243石 7年平均の米収穫高

つまり「田の石高」というのは米の不作時の最低ラインに相当し、
肥後国の場合は豊作時にはその1.5倍もの米が収穫できた

ただし豊作時でも肥後国の明治5年総石高には米の生産高が届いていないし、
明治9年~15年の平均米収穫高は明治5年総石高の83%程度に相当する
81:2013/12/30(月) 06:59:55.47 ID:
生産された食料である米が、人口の多数である農民が「ほとんど」食べられず
と主張した奴が何を言ってんだ。
一部の農民は米が口にはいらない事を否定なんかしていないよ。
83:2013/12/30(月) 08:33:16.86 ID:
一般的な農民の多くが「ほとんど」食べられなかったのは、100%白米の飯だ。
84:2013/12/30(月) 21:03:00.73 ID:
夫食貸しでは、
成年男子で、米2合、麦4合
女性、15-60歳以外の男子は米1合、麦2合
が支給された。

このことから、農民は米1に対して麦2を緊急時食べていた。
通常は1対2かこれ以上で食べていたと思われる。
85:2013/12/30(月) 21:25:02.04 ID:
庄屋日記から、祝儀において白米を送る習慣があったりする。
白米が貴重であったと思われる。
89:2015/01/16(金) 18:56:04.46 ID:
一般的な農民が日常的に米を食えるようになったのは戦後だが
一般的でない農民なら別だしな
91:2015/03/31(火) 19:58:28.16 ID:
江戸の都市住民は貧しくても米ばっか食ってたわけだし、
農村部によっては富豪庄屋だって、白米だけではほとんど食わない、
という場合も多かったと思うが。
これは「米」に対する価値観の違いだろ。
德川期より以前年米が年貢として重要視される以前まで
農村部はより多く米を食っていた気がするんだが。
まぁとにかく地域によってかなり差があった


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